自分のこの課題を挑戦する資格があるのか.そんなことを考えていた.
尾鷲のとある海岸線に一道という課題がある.目を奪うようなルーフクラックだ.同じくルーフクラックを嗜好する友人からおおよそ8mほどの洞窟の天井にあるクラックの写真が送られてきたときには一瞬で魅せられた.ルーフクラック好きならば登らない一手はない.しかし,この課題には一つだけ問題点がある.ボルダー課題なのだ.
でだしは2mほど徐々に高さを上げていきルーフを越えてからは高さは8mほどあるだろうか.通常ならばとてもボルダーで登るような課題ではない.下が地面ならば即死,あるいは致命傷だろう.下地が地面ならば,,,だ.だが実は先に言ったようにこの課題は海岸線にあり,ルーフ部分の下は海なのだ.つまりDeep Water Soloの課題なのだ.そのような立地がこの課題をロープなしで登ることを可能にしている.とはいえ,出だしの4mほどのルーフ部分の下地は岩でこの部分でも高さ3-4mほどあるためここ落ちれば致命傷は避けられない.ましてやルーフ課題なので背中を下にした状態でフォローすることになる.骨盤骨折や脊髄損傷,頭部打撲など様々な怪我が想定できる.いずれにせよ取付くには相応の実力と覚悟が必要になる.
この一道という課題,初登されたのは2017年と最近だ.記録も初登者パーティーの2人分に加え,この課題を教えてくれた友人のものしかない.他にも登っている人はいるかもしれないがおそらく数人しか登っていない.幸いなことにアプローチに関する情報はあるためトライしようと思えばできるのだ.
この課題を教えてもらったのが2023年の夏のことだ.場所が尾鷲なだけに冬になったらトライしようかと思っていた.でもこの冬はWCMや錫杖通いなど冬壁に精を出しておりなかなかフリークライミングに行く機会がなかった.そんな中シーズンも終わりかけの3月にふとこの課題を思い出し年休をとって一人でトライに行くことを決めた.前日にもたまためフリークライミングの予定が入っており滋賀にあるAbs masterという課題を登った.その足で尾鷲に移動し道の駅で夜を明かした.
一道は見目奪う課題なだけにぜひとも登りたかった.だがロープレスで登る恐怖心もあった.一人で行って何かあったときにリスクが大きいのではないかとも思った.ロープを使って登ろうかとも何回も思った.自分にこの課題に挑戦する資格があるのかと何回も自問自答した.課題をみて危険が大きいようならばトライをせずに帰ろうとも思っていた.
場所は事前に友人から聞いていたこともあったがアプローチには苦戦した.車を止めてトラロープが張られ整備された釣り師の道を歩き海岸線まででるとそこから課題があると思しきところまで海岸線をひたすらあるく.ボルダーマットとザックをもってバランスの悪い中,道なき道をへつったり,上り下りしたりしながら進んでいく.どうやら折口を間違えたらしい,想定していたよりも時間がかかった.だが歩き続ければいつかは突き当たると信じて進んでいくとようやく写真で見た洞窟を発見した.海岸線に出てから30分くらいだろうか.
一道は写真でみてイメージした通りの圧倒的なルーフクラックだった.怖さよりも登攀意欲が勝った.だがどうやらアプローチが悪い.前々日の雨の染み出しでぬれた岩を4級ほどのムーブでへつってようやく取付きにつく.おそらく波が高いのだろう.洞窟の奥にごうごうと波打っており恐怖心を駆り立てる.写真でボルダーマットが置いてあった岩は波をかぶっておりマットを置くことはかなわない.本当のフリーソロだ.
ルートを眺めると下地が岩の部分はハンドサイズで悪くなさそうだ.だがその先は広くなっている.はたしてジャミングが効くのか.そこを越えるとリップになりジャミングが効きそうだ.そのあとはフェイスムーブで乗越し,などなどムーブのイメージをする.取付きから離れ再び安全地帯に戻りテーピングやウォーミングアップ,心の準備などの時間をとる.
1stトライ
岩場に着て1時間以上たった10時20分頃にようやく覚悟が決まりいよいよ取付きだす.濡れているアプローチを4級ほどのムーブで越えて取付きに,覚悟は決まっているはずだが逡巡する.声をだし自分を奮い立たせいざ取付く.出だしのハンドサイズにみえてクラックは予想通りだがばち効きとなる場所は限られる.おまけにけっこうオフセットしておりムーブ的には苦しい.ルーフクラックというよりもトラバース課題だ.それでもよく効くハンドジャムを信じて,左足でフェイスのスタンスを拾いながら右足のフットジャムを進めていく.ほとんど登られていないクラックは粗くジャミング自体も,その時に擦れる腕や足もを痛めつける.まだ下は岩だ.ここでは落ちられない.ハンドジャムのパートを3mほど進みクラックが広くなる.ジャミングが効きそうな場所はクラックの奥でこのルーフでは決められそうにない.手前にはホールドがありこちらは持てそうだがその次のムーブがわからない.ムーブを考えているうちに徐々にパンプしてきた.このあたりから落ちることを考えはじめる.下を見るとここはちょうど海と岩の境界だ.右足のジャミングは効いているがこの状態で落ちたら一大事になりかねない.もうこの時点で登ることは諦めていて落ちることを考えている.最後の力を振り絞って右足のジャミングを解除しぶら下がった状態で体を振り海にめがけて飛び降りた.ざぶーん.足が海底につくくらい沈んだが衝撃はほどんどない.すぐ近くの岩に上がり呆然とする.オンサイトトライは終わった.でも生きている.ケガもない.この高さでも海に落ちれば問題ないと知り,気持ちは次のトライに向かっていた.濡れた状態でアプローチのへつりを行くのは怖く泳いでも戻ろうかとも思ったが波も高く自信がない.慎重に4級のムーブをこなし荷物の所につきようやくほっと一息がつけた.
濡れた衣類を着替え,カンカン照りの岩に敷き詰め干す.動画を見返し,オンサイトトライが終了したことをいいことにyoutubeに上がっている動画をみて「ああ,なるほど」とムーブを確認する.自分にはボルダー力とオブザベーション,ムーブの構成力が足りていないかったようだ.これでもかと張った腕と体に休息を与えつつ次のトライに備える.
2nd try
1時間ほどの休憩を経て,先ほど落ちた箇所のムーブもイメージができたので2回目のトライをすることにした.シャツやズボン,靴は濡れ,チョークは海に流された.濡れた衣類のままのトライも考えたがチョークを落とすときに手が濡れてしまうので持ってきた短パン,上半身は裸でトライした.シューズは濡れていたがソール部分に問題はなかったのでそのまま使い,チョークバックは予備のものを使用した.
相変わらず悪いアプローチを経て再び取付きに,先ほどのトライで前半部分の概感はつかめているのでおおよそ岩のパートで落ちることはないという思いはあった.核心部分に集中できる.だがその先は未知だ.リップにもクラックはあるが果たしてジャミングが効くのだろうか.自分の力で現場処理できるのだろうか.そのような不安はあったが,そこはもう下は海.落ちても大した問題はないと言い聞かせ2nd tryを開始する.
出だしのハンドパートは相変わらずムーブが苦しい.さっきは使わなかったクラック横のガバを使って軌道に乗せると思いのほかすぐに核心部分に到達した.クラック縁のホールドを持ち,足を切り,スタンスを踏み,引き付け再びクラックに手を入れる.イメージ通りの動きができた.左手のジャミングを右手に変え,アンダー気味にリップのガバを取りに行く.「ああ,よかった.ちゃんとガバだった.」そんなことを考えながら右手も寄せてレスト体勢を作ることに成功した.
ここからが長い戦いだった.レスト体勢は安定しているものの次の一手がわからない.平時なら持てるようなカチはある,甘いジャミングもある,だがハング越えの足が悪い.上がっては下がり,上がっては下がりを繰り返すこと10分ほど,さすがに疲れが出てきた.テーピングもズレてきた.もう落ちて楽になりたいという気持ちと,ここまで来たからには落ちられないという気持ちのせめぎあい.トライして落ちることは許されるが,自分からは落ちることは許されない.自分を許すことができない.とはいえいつまでもこうしていたらいずれ落ちるのは目に見えている.最後の力を振り絞り,甘いジャミングと甘いホールドで体を上げようとしたときに足が外れた.ばしゃーん.落ちたのは悔しいが出し切って落ちたのだ.かろうじて自分を許せたが悔しい.今の自分には何かが足りない.安定の安全地帯に戻り次のトライをするか考えた.海水でクーリングしたとは言え腕とふくらはぎには焼けつくようなパンプが残っておりとりあえず休憩してから考えることにした.
3rd try 俗にいう“泣きの一回”
結果,もうワントライだけすることにした.これが最後のトライだ,と自分に言い聞かせ奮い立たせた.実質,シューズや衣類,チョークバックも乾くことはなく装備的にも最後のトライだろう.まだしっとりとしているチョークバックにチョークを詰め込み,帰りのために残していた衣類をきる.シューズはさすがに水を吸っていたので古いTCproを使うことにした.
もうこれが最後だと思いながら,潮が下がり高度感の増したアプローチを過ぎ取付きに戻ってきた.登れるといいなあ.動画で先ほど落ちた箇所のムーブは確認したがいまいちイメージがわかない.疲れがなければムーブをだせるのだろうか.時間をかけずスピーディに超えていこうなどと思いながら取付く.
絶対落ちないハンドパートだが何かがおかしい.やはり疲れているのか.明らかなパフォーマンスの低下を感じながらも登りだしてしまった以上はもう戻ることはできない.ここで落ちれば大けがだ.落ちないはずの前半パートをアップアップで越えて核心パートへ.何とかホールドを持ち足を上げるがさっきは届いたクラックが妙に遠い,引き付けきれない.そう思った瞬間に「あっ!」フォールした.ぎりぎりの場所だった.左足をがつっと岩にぶつけながら海面の下がった海に落ちた.足が痛い,尻が痛い.でもとにかく海から上がらねば.尻は大丈夫そうだ.でも足はやっぱりいたい.はいずりながら海から上がりなんとか安全地帯に.足は痛いがつま先立ちなら動けそうだ.日も当たらなくなり午前中よりも気温の下がっておりこのままでは低体温症になる.とにかく着替えねば,その思いだけで荷物のもとに.この瞬間に俺の一道のトライはおわった.そして今後は「生きて帰ること」が最大のミッションとなった.
生還
着替えをし痛む尻と足をかばいながら荷物を片付ける.痛むが動ける.どうやら最悪の事態は免れたようだ.打ち所が悪ければ即死だっただろう.そうでなくても動けないようなケガならここで野垂れ死んでいたかもしれない.尾鷲に来ることは妻には伝えていたが詳細は知らない.幸い電波ははいるので救助要請はできるが詳しい場所を伝えられるだろうか.そんなことを考えながら帰路に就く.だがやはり足が痛い.来た時のように岩がゴロゴロ転がっている海岸線を延々とあるくのは骨が折れるだろう.海の方を見ると釣り師と思われる船が海岸に近い所に浮かんでおりこっちをみている,,,ような気がした.大丈夫.大丈夫なはず...
そうして降りてきた場所とは違う踏み跡らしきところから森に入った.大丈夫,大丈夫なはず....踏み跡とは言えない踏み跡を登り,それでも踏み跡のような形跡があることは心強かった.そしてどんな形でも150mほど上がれば熊野古道にでるだろうと信じて藪の中を進んだ.「生きて帰れるのかな,大丈夫.大丈夫」と自分に言い聞かせて.ある程度登ると電波がはいるようになりGPSを使って現在地を登山道を見比べる.大丈夫,大丈夫だ.ようやく熊野古道に出たときには本当にうれしかった.「ああ,これで生きて帰れそうだ.」整備された林道歩き車までたどり着いた時にはしばらく動けなかった.安心して,,だ.別のザックに入っていたロキソニンを飲み,簡単に荷物を活付け,課題を登れなかった後悔よりも生きて帰れる安心感,そして恐れずにトライすることができた自分への称賛を胸にいただきながら車を発進させる.
帰宅してまともに歩けなかった.よくこんな状態であの斜面を登ったなと.今でも夢か現かよくわからないぼんやりとした1日だったと思う.一歩間違えれば,,,に何回も遭遇し幸い一歩も間違えずに大したことがないけがで済んだ.反省はある,悔いもある.でもやらなければよかったなあという後悔はないから不思議だ.今日整形外科にいく,もしかしたら骨折しているかもしれない.そうした場合には何か月かクライミングはおろか登山もできないだろう.もちろん寂しさはあるが,それでもモチベーションは高く,登れない間どんなトレーニングをしようかもう考えている.これから何十年とつづく(であろう)自身のクライミング人生においてこの何か月登れないことなんて大した後退ではない.むしろプラスに働く可能性の方が高いだろう.クライミングを始めて3年ほど,とにかく上へ上へと突っ走ってきた.ここいらで一息つくことも大切だろうと思う.
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